100年の歴史と誇り

成長期

昭和20年~昭和54年(1945-1979)

昭和20年(1945)終戦間もない8月下旬、外務省より米軍進駐までに日産館の塗り替え工事をせよとの依頼があり、前後の塗り替え工事としてはとしてはおそらく第1号と思われる工事を文字通り突貫工事で施工した。
その後、帝国ホテル、第一ホテル、放送会館(NHK)、米軍女子幹部宿舎など矢継ぎ早に注文が殺到した。
事業の拡大に伴って個人経営の髙橋延吉商店から合資会社 建装工業社を設立し本格的な戦後復興へ体制を整えていった。

外務省終戦連絡事務所(旧日産館)塗替工事
帝国ホテル塗装工事 昭和20年(1945)

八重洲ビルの塗替え工事をきっかけに鹿島組(現・鹿島建設)との取引もはじまる。
進駐軍の宿舎塗装やホテル、国際劇場の塗替工事などを手がけ、昭和23年(1948)には仙台支店を開設し日本石油と初取引し、仙台給油所タンクの一式塗替工事なども手掛ける。
また、このころより大林組、大成建設との取引もはじまり、工事内容も塗装工事とどまらず、工事に派生するガラスを入れたい、ドアを交換したいなど多岐にわたるようになる。
昭和24年(1949)には大阪支店を開設し日本勧業銀行の大阪各支店の塗装工事を施工。

昭和24年(1949)
日本勧業銀行本店新築塗装工事

また、この年には日本発送電(のちの電力9社)の指名業者として全国の発電所関連施設の塗装工事を手掛けるようになる。
この頃、石川島播磨重工業(IHI)との初取引もはじめ、米軍上陸用舟艇などの船舶塗装にも進出した。

昭和25年(1950)頃の本社社員
昭和27年(1952)
第一生命相互ビル塗装工事
昭和28年(1953)
銀座松屋デパート改修塗装工事

戦後復興期を経て日本経済は高度経済成長期を迎えようとしている昭和29年(1954)株式会社に改組し、髙橋夘之助が代表取締役社長に就任。
取引先も多岐にわたり、建築物塗装、電力施設塗装、プラント塗装、橋梁塗装などを手がけ昭和35年(1960)には念願の完成工事高日本一を達成した。

昭和37年(1961)東京電力横浜火力発電所新築塗装工事
東京電力千葉火力発電所
昭和37年(1962)若戸大橋塗装工事
若戸大橋竣工時の髙橋夘之助社長

昭和40年代に入ると戦後最長の好景気「いざなぎ景気」を迎える、その過程で日本は米国に次ぐ世界第2位の経済大国の地位を獲得する。
当社も首都高速道路公団、日本道路公団、日本国有鉄道、電力各社、電電公社、民間金融機関、キリンビール、サッポロビール、出光興産、ホテル、学校施設など塗装工事も多岐にわたってきたことから事業部制を採用し、組織の強化と専門性を高めていった。

日本経済は昭和48年(1973)田中角栄内閣による「日本列島改造」による地価の暴騰やインフレの加速、そして第四次中東戦争勃発をきっかけにオイルショックが起こり不況の波に飲み込まれていった。
そんな激動の昭和40年代の中で、当社は長大橋時代の始まりを告げる夢の架け橋といわれた「関門橋」の新設塗装工事を手掛けることとなった。
当時東洋一の規模を誇る吊り橋は橋長1,068m、最頂部から海面まで200m余の巨大な鉄の塊であったという。夏の炎天下や冬の寒風吹き曝す厳しい施工条件の下、当時最新の仮設設備を駆使しながらの工事と品質を確保する為の様々なノウハウを習得し、総塗装面積167,000㎡ 2年という工期を費やし本州と九州を結ぶ交通網が完成することとなった。

昭和48年(1973)関門橋新設塗装工事
昭和48年(1973)関門橋新設塗装工事(全景)
昭和48年(1973)九州電力玄海原子力発電所
昭和49年(1972)迎賓館改修塗装工事(外観)
昭和49年(1972)迎賓館改修塗装工事(室内)

昭和50年代に入り高度経済成長も終焉し日本経済は安定成長期へと入り、産業、科学技術の発展に欠かせない電力供給開発の拡充と規制緩和による建物の長高層化が始まり都市部では超高層ビルが続々誕生していくこととなる。
当社も水力、火力と早期から電力インフラ施設塗装の経験を蓄積し、その後多くの原子力発電施設の塗装工事を手掛けていきました。
また、多くの超高層ビルの新築塗装工事も手掛けていきました。

昭和52年(1977)
種子島宇宙センターNロケット組立発射設備付加装置塗装工事
昭和53年(1978)池袋サンシャイン60ビル
昭和54年(1979)新宿センタービル外壁塗装

■100年の歴史と誇り

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